悪しきに合掌

自分から自分への気づきメモ

トラブルの本質

①何か現象(問題)が起こる(起こったように見える)

②それに対し、被害を受けたと認識した方が、加害者を責める又は加害者に怒る。

③'加害者だと自己認識した方が素直に謝罪し、
被害者が受け入れれば、問題は解決に至る。

③"加害者だと自己認識しても、不可抗力その他事情により問題が起きたことを理由に謝罪しない、又は表向きに謝罪はしても、自己の非を認めない(損害賠償の責任を負担しない)。その場合、問題は解決しない。

普通の被害者側は、自己への加害行為を自己存在の否定と捉えるので、謝罪もなく赦すことはできない。

加害者の謝罪なく赦せる被害者がいるとしたら、心広く愛がある人だと自己錯覚している人か(この場合、本質的な問題は何も解決していないので、形を変えた問題という現象が再び起こる)、加害者の中に責めるべき罪(問題行動)を認めない(つまり、無意識の自己罪悪感を加害者に投影していない)人だからである。

逆に加害者(に見える)側の人が理不尽にも怒っており、その怒りが収まらない、又は被害者側の正当な怒りが、どんな謝罪をしても収まらない場合、怒っているのはその相手ではなく、自己内部にある未解消感情なのである。
そこで思考の逆転を使い、心の声で自らに対して謝り、怒りのエネルギーを中和させる。すると、自己内部の怒りが癒された度合いに応じて、相手の怒りも緩和していく。
この時点で、非のない自分に何故謝るのかということが腑に落ちていないと、さらに未解消感情を堅固なものにしてしまうので注意。

さて、相手の怒りが収まらなかったり、さらに激昂した場合には、それだけ自己内部の「怒り感情」が根深く強いという証なので、めげずに自己への謝罪を続ける。
この怒りはどこからくるかというと、恐れである。自己存在否定に対する恐れ。この恐れはどこからくるかというと、罪悪感である。自己存在理由に対する罪悪感。これは、罪悪「感」なので、自己の存在が「罪悪」なわけではないのだが、「罪」を自己の中で既成事実であると認めてしまっている。
だから、その勘違いのところまで戻って、自己に謝罪するのである。罪なんてはじめから誰も犯してないし、誰も責められることなんてないのだ、ということを。これが本当の意味での贖罪となる。


…ということを私のサイドイフェクトが告げている(なんてねw)。

仮想現実

私たちが睡眠中にみる夢。
夢の中では、その世界が現実世界であり、登場人物も生きているかのように話すし自律的に行動もする。

そして目が覚めるまで、夢の世界の中にいることに気づかない(…ことが多い)。

夢と現実世界を繋ぐ介在者としての「私(の感覚またはその記憶)」

現実世界=実在、夢の世界=非実在だとしたら
夢の中いる「私」も非実在なのだろうか。

夢の中の「私」と実在の「私」とでは、容姿や身体能力に差があったとしても、記憶は共有しているし、意識そのものもやはり同じ「私」である(ように感じられる)。

夢の中の世界も登場人物も、全て「私」というデータに依拠しているけれども、現実には存在していない。

では、その夢の脚本は誰が書いているのか。
少なくとも、隣の家の山田さんとかではないでしょう。

私達の脳でしょうか。
そうかもしれませんが、私達にはその自覚がありません。夢の中では個性豊かな人物や普段の自分では想像もできないような立派な建造物(そして細やかなディテールや彩色!)が登場しますが、果たしてこれらの

夢の内容(脚本)は、「私 < わたし」が書いているのでしょうか。

註)私:個別肉体的存在としての自我

わたし:各私達の元になっている単一的存在としての自己

しかし、自分ではそんな脚本を書いた覚えはない。だからこそ、夢の渦中でその内容に対してリアルに一喜一憂できる。

その脚本を書いた「わたし」とは、誰なのか?

実在していないのに、実在している「わたし」的存在というのは、ありえるのでしょうか。

私たちは、夢をみます。
見る…というより、見せられるという方が適切かな。

その夢は、抑圧した感情の反映だったりすることもあるようですが、それが悪夢だったときは、目が覚めてホッと安心した、という経験は誰でもあると思います。

「 あー、夢かぁ」と。

そして数時間もすれば、少なくとも次の晩に別の夢をみるときには、その前の晩にみた夢のことなんてすっかり忘れてしまう。

目が覚めたら覚めたで、私たちは現実世界でなすべきことの対処に忙しいですからね。

現実世界では、私がいて、他人がいて、世界という私とそれ以外が存在する空間があって、時間という観念的なものが流れ、物理法則によって支配されている…ことになっている。

でも、たまにバグが起きたりもします。
それを世間では「奇跡」とか呼んだりしていますね。

たまに常識的に不可解な現象があるとはいえ、この現実世界も「私」も絶対的に存在しているし、「私」と「あなた(を含む私以外の全ての存在)」は、お互いに独立した別存在である…という大前提のもとに成り立っている。

そして、肉体の寿命が尽きたあとの「私」は、あの世に旅立ち、またしばらくして私たちは輪廻転生する度に、生まれる前の私のことや前の人生記憶を忘れてしまうけど、それはまるで前の晩に見た夢のことを簡単に忘れてしまう(実際は夢を見ていたことの自覚すらないことの方が多い)のに似ていませんか。

この現実という名のもとに♾ループする夢からは、どうしたら覚めることができるのでしょう。

そうして太古より様々な悟りを開くための修行方法が生み出され、実践されてきたわけですが、どうやらその目覚めの扉を開くための鍵は、この外的世界にはないようです。

そもそも、もし鍵を見つけたとしても、扉自体がこの世にない。

例えば…人は食べないと死ぬ、というのは子供でも知ってる常識だし、その事実が揺らいだら大変なんだことになってしまうけど、たまにいるんですよね、全く食べなくても普通に生きている人が。


でも、この世界や私自身も、寝ているときに見る夢と同じようなものだとしたら。

すべて、宇宙に一人しかいない「わたし」による自作自演だとしたら…。

物理宇宙の構成要素

分離の信念

         ↑

宇宙はこれで出来ている。

 

全なるもの

平安

永遠

♾のエナジー

…からの分離。

分離したという錯覚(強烈無比な思い込み)。

 

だから、この世で生きるということには、常に不足感が付きまとう。

 

一元ではなく、二元の世界だから、全なる安心感を求めて、陰陽は引き合うけれど、その安心感の多くは刹那的。

 

でも、この世の抗えざる法則として、またバランスという美名のもとに、この「不足感」を動機としたあらゆる人間活動は最大限尊重されている。

 

しかし、「不足感」の真因をほとんどの人間は知らない(というより知ろうとしない)。

 

分離することで得られた(ように見える)自由と引き換えに、この途方もない「不足感」だけではなく、そこから派生するどうしようもない「恐れ」という呪詛までも自らに課してしまった人間は、皮肉にも一元なる愛、安心感を(見当違いな)外の世界に求め続けて彷徨い、枯渇する(と信じて疑わない)生命力を求めて死ぬまで食を貪り続ける。

 

色(しょく)と食(しょく)は、人間を人間たらしめると同時に正気を蝕(しょく・むしば)む。

 

一時的に得られる安息に快楽という感覚を付随させて中毒化させるとともに、その原因である分離感(不足感)は、潜在意識の奥にしまいこませて自覚不能の自己トラップを掛け、不足感から派生し湧き続ける「恐れ」の方は、反射的に外部のもの(社会、環境、自分、他人、モノ、その他全て)に投影するという卑劣な防衛機制によって誤魔化し、その皺寄せとして生み出される様々な依存、葛藤、憎しみ、怒り、悲しみ、そして見せかけの愛と思いやり…等々によって、太古より数多の人間ドラマを紡ぎ出し、執着という鎖で拘束することで、脱出不可能に見える牢獄として今なお順調に機能しているのがこの素晴らしき進化を遂げてきた宇宙と神の子の実態。

 

だから、この世という牢獄を地上天国化させるなどと言う耳障りの良い妄想が虚言であることを見抜き、一人一人がなんとか正気を取り戻すことが先決。

 

そもそも、この世を天国化させようとしている人間そのものが、この牢獄にとっての害悪なのだから、人間が改心して皆が出所しさえすれば、そこは自ずから天国化するという逆説的事実にもかかわらず、その牢獄の住人は、中身のグロテスクさ(精神的、肉体的にも)を隠すために、外身の装飾に試行錯誤し、いかに刑期の延長を図るかに夢中で、出所する気なんて更々ないということを肝に銘じておきたい。

 

にもかかわらず、無自覚的な生き方をする人間は増え続け、この世の地獄化に拍車をかけているという…もう悲劇なのか喜劇なのか分からない混沌化した現代社会。

 

…という捉え方、考え方も宇宙と人間に対する一つの解釈だけど、

その心は、

分離を知覚し、分離に迷わず、私(自我)を捨て、わたし(自己)を保ち、地獄にいて、天国を生きる。

その実相を自他の中に見出す「存在」でいることで、何もせずに全てを為し、誰にも知られずに自他と世界を救う

 

ということで、今宵もまたビールでも飲みながら、世界(歪曲された想念=私)のクリーニングをしましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己否定に対する途方もない恐れ

自己承認欲求の裏にあるもの。

 

そしてほとんどの人(自我)が認めようとしないもの。

 

内に秘められた恐れ。

 

それは、直視することでしか、逃れることのできない自らの影。

 

 

自己承認欲求

その想いの底にあるもの…。

 

「わたし(自己)」という存在そのものに対する思い込み。

 

「わたし」と「だれか」という関係性の思い込み。

 

本来、「ない」ものを「ある」と思い込んでいる。

 

錯覚している本人には「ある」が真実。

 

そして、錯覚していることを自覚する人はほとんどいない。

 

錯覚している人がいる、というのもまた錯覚。