悪しきに合掌

自分から自分への気づきメモ

仮想現実

私たちが睡眠中にみる夢。
夢の中では、その世界が現実世界であり、登場人物も生きているかのように話すし自律的に行動もする。

そして目が覚めるまで、夢の世界の中にいることに気づかない(…ことが多い)。

夢と現実世界を繋ぐ介在者としての「私(の感覚またはその記憶)」

現実世界=実在、夢の世界=非実在だとしたら
夢の中いる「私」も非実在なのだろうか。

夢の中の「私」と実在の「私」とでは、容姿や身体能力に差があったとしても、記憶は共有しているし、意識そのものもやはり同じ「私」である(ように感じられる)。

夢の中の世界も登場人物も、全て「私」というデータに依拠しているけれども、現実には存在していない。

では、その夢の脚本は誰が書いているのか。
少なくとも、隣の家の山田さんとかではないでしょう。

私達の脳でしょうか。
そうかもしれませんが、私達にはその自覚がありません。夢の中では個性豊かな人物や普段の自分では想像もできないような立派な建造物(そして細やかなディテールや彩色!)が登場しますが、果たしてこれらの

夢の内容(脚本)は、「私 < わたし」が書いているのでしょうか。

註)私:個別肉体的存在としての自我

わたし:各私達の元になっている単一的存在としての自己

しかし、自分ではそんな脚本を書いた覚えはない。だからこそ、夢の渦中でその内容に対してリアルに一喜一憂できる。

その脚本を書いた「わたし」とは、誰なのか?

実在していないのに、実在している「わたし」的存在というのは、ありえるのでしょうか。

私たちは、夢をみます。
見る…というより、見せられるという方が適切かな。

その夢は、抑圧した感情の反映だったりすることもあるようですが、それが悪夢だったときは、目が覚めてホッと安心した、という経験は誰でもあると思います。

「 あー、夢かぁ」と。

そして数時間もすれば、少なくとも次の晩に別の夢をみるときには、その前の晩にみた夢のことなんてすっかり忘れてしまう。

目が覚めたら覚めたで、私たちは現実世界でなすべきことの対処に忙しいですからね。

現実世界では、私がいて、他人がいて、世界という私とそれ以外が存在する空間があって、時間という観念的なものが流れ、物理法則によって支配されている…ことになっている。

でも、たまにバグが起きたりもします。
それを世間では「奇跡」とか呼んだりしていますね。

たまに常識的に不可解な現象があるとはいえ、この現実世界も「私」も絶対的に存在しているし、「私」と「あなた(を含む私以外の全ての存在)」は、お互いに独立した別存在である…という大前提のもとに成り立っている。

そして、肉体の寿命が尽きたあとの「私」は、あの世に旅立ち、またしばらくして私たちは輪廻転生する度に、生まれる前の私のことや前の人生記憶を忘れてしまうけど、それはまるで前の晩に見た夢のことを簡単に忘れてしまう(実際は夢を見ていたことの自覚すらないことの方が多い)のに似ていませんか。

この現実という名のもとに♾ループする夢からは、どうしたら覚めることができるのでしょう。

そうして太古より様々な悟りを開くための修行方法が生み出され、実践されてきたわけですが、どうやらその目覚めの扉を開くための鍵は、この外的世界にはないようです。

そもそも、もし鍵を見つけたとしても、扉自体がこの世にない。

例えば…人は食べないと死ぬ、というのは子供でも知ってる常識だし、その事実が揺らいだら大変なんだことになってしまうけど、たまにいるんですよね、全く食べなくても普通に生きている人が。


でも、この世界や私自身も、寝ているときに見る夢と同じようなものだとしたら。

すべて、宇宙に一人しかいない「わたし」による自作自演だとしたら…。