悪しきに合掌

自分から自分への気づきメモ

悟り

時間はない。

時間はこの空間限定で感じる錯覚である。

この世界(空間)はない。

夢の中の世界が実在しないのと同義である。

そしてまた私も、私の器である肉体もまた実在していない。

 

モニターの映像が、実際には画素の集まりでしかなく、映像として見えるモニター上の肉体が実在していないのと同様に、この世界において素粒子の集まりでしかない肉体も同様に、存在しているようには見えるが、実在してはいない。

 

実在していない肉体に収まっているはずの私(思考=データに基づく自律的作用)が、肉体という器に依存した存在だと(一般常識的には)思われているが、その器なしのデータ(思考)を宗教的な意味で魂と呼ぶこともある。

 

しかし、またその魂が存在するために依存していると思われる世界(あの世)の構成粒子が、素粒子よりもさらに精妙な画素的なものであるならば、その世界も実在してはおらず、その空間に依存する魂たちもまた実在していない。

 

世界はなるようになるべくして、今の姿をしており、全てはしょうがない結果である、という見方がある。

しょうがない結果を未来のために、良くする努力をすることができる。

しょうがないと諦めて何もしないこともできる。

そして私は、今ある世界に対してどう対処するかを私が決めることができる。

…ように見える。

 

しかし、できるように見えるだけであって、実際は、私の決断も全体(ワンネス)の中で、培われ、私というデータに対し自律的に発動しているだけの作用であり、根本的には私(データ)が決断しているわけではない。

 

だから、どのような世界の有り様も、その時その時の自律的作用の積み重ねの結果であり、その自律的作用は、本来、私ではどうにもできないことなのであるから、未来に起こることもまた全てしょうがないのである。

 

もし、いまの腐敗した世界、堕落した自分に対して、社会(私の集まり)や私がどうにかできていたのなら、腐敗した世界や堕落した私にはなっていない。

 

といっても、ことの有り様に対する見方(価値観)は、相対的なものなのだから、良いも悪いもない。ただ、事実と役割があるだけである。

 

結局、この世界は、それら全てのしょうがない有り様に対し、私が関わりをもつことで、世界や人生を構築していけると錯覚するためのゲームである。

 

予め全てのシナリオが決まっていると分かっている映画や小説などのフィクションであっても、それを理解した上で私たちは一作品として楽しめるように、この世界もそうした視点に立つことができれば、先の見えない体感型アトラクションとして楽しむこともできる。

 

しかも、私たちは、この世界と私が実在していると錯覚しているのであるから、このゲーム体験の没入度は深く、ときに楽しみを超えて深刻にすらなれる。

 

このしょうがない世界を、楽しむもよし、執着するもよし。

しかし、この世や私に対する執着(=寄生)する我(=エゴ)を捨てれば、私を超えた「わたし」に気づき、世界の本当の姿を発見し、環境に左右されない楽しみ方ができるようになる。

 

いくら探しても見つからなかった悪夢の出口は、元々この夢の世界の中にはなく、世界と私の真実に気づくことそれ自体が、夢からの脱出方法であり、夢を見ている本体(天国=大安心)として目覚めるための秘訣である。