解脱
表には裏が、上には下が、光には闇が必ず伴うように、この世には、争いが伴う。
なぜなら、この世の前提として、全ては分離独立しているモノ、個人から成り立っているという幻想を我々が受け入れているからである。
皮肉なことに、この世から解脱したいと努力するほどその蟻地獄にハマってしまう。
だから、この世の幻想とそこから生まれる理不尽を見て見ぬふりをせずに認めた上で、この世の現象を生み出しているモトに感謝する。
そして、この世の理不尽に対応しながらも楽しむ。
これこそが隠された解脱の抜け穴なのである。
ゲームの楽しみ方
あまりにも綺麗なグラフィックに、感嘆の声を漏らすとき、ゲームなのにそのリアル感が凄いことに驚き感動するのであって、ゲームの世界の実在性に対してではない。
そのゲームとリアルの区別ができているから、
例えゲームの中で死んでも受け入れられるし、
仲間の死に対して気が狂うこともない。
しかし、あまりにもゲームの世界に熱中し、
中毒してくるとその様相も変わってくる。
つまり、ゲームを深刻に捉えすぎるが故に、楽しめなくなるという本末転倒な状態に陥る。
それはつまり、私たちの現実世界でも全く同じであるが、ほとんどのひとはそのことに気づいていない。
肉体という着ぐるみ
の中の人が本当の私、と言うことではなく
着ぐるみを含めた世界の外にいるのが本当の、
ただ一人の私、と言う気づき
世界の中にいる肉体の中の人が私なのではなく
世界も肉体も、ただ一人の私の心の中にある
睡眠中に見る夢の中の出来事が実在しないように私の心の中の世界も実在しない
世界を描写する言葉
…のように見える
努力すれば、道が拓ける…ように見える
世界は理不尽に満ちている…ように見える
自分はこの世で生きている…ように見える
コペルニクス的な
どこかにあると思っていた大地や海の果て
しかしどこまでいっても果てはなかった
夜空を煌びやかに駆け巡る星々
しかし動いているのは星々ではなかった
あまりにも実際の感覚とはかけ離れている世界の真姿
見かけの世界に騙され続ける私たち
脳「内」スクリーンに映し出される夜の夢
脳「外」スクリーンに映し出される昼の夢
テーマは、分離の世界
素材は、無自覚な罪悪感
そして、いつの日か、大地や海の果てどころか、世界そのものがなかったことに気付き、微笑みながら映画館を後にする
時間の錯覚
太陽は動いていないのに、地球が自転しているせいで、我々には太陽が動いてるように錯覚する。
もし、地球が自転をやめたら、太陽も止まる。
時間の錯覚も同じで、本当は時間が流れているわけではなくて、不動かつ唯一の「今」に対し、我々の心が動いているので、毎瞬の今が過去から未来に流れているように感じる。
心がじっとして不動になれば、時間の錯覚も止まる。その停止した「今」こそが、自我が隠してきた天国へ至る不滅のゲート。
制約の意味
ゲームのイージーモード
HPの設定が高めであったり、敵の数が少なめだったりと、ゲームに慣れていない初心者が快適にプレイするためのモードである。
それは、ゲームの世界だけでなく、我々の実社会でも採用されており、民法における未成年者の取消権や労働法、少年法における未成年者保護規定などに表れている(決して適切に制度運用されているわけではないが…)。
しかし、ゲームの世界におけるイージーモードの場合、次第に物足りなくなってくることが多い。なぜなら、やりがいに欠けるからである。
ボタン連打でクリアできるゲームなんてただの作業でしかなく面白いわけがない。
そこでノーマル、ハード、ベリーハードとモードを上げるわけだが、それだけプレイ上の制約は増し、ハードルも高くなるため、プレイヤーは、より高いスキルを求められるようになる。
しかしその分、クリア時の達成感はイージーモードの比ではない。
これも実社会で似たところがあり、より偏差値の高い大学、知名度や給与の高い勤務先、難易度の高い資格などなど、狭き門のクリアを求めて頑張っている人は多い。
ゲームでも実社会でも、共通するのは、
基本能力+任意の(努力+才能)=スキル向上
という等式であり、プレイ制約(自己縛り)が多いほど、スキル向上率は上がる。
ゲーム(人生)攻略する上で看過ごせない『運』要素については、ここでは割愛する。
このことは、実社会における武術の世界においても同様で、若い頃は体力・腕力に任せたスキルの誤魔化しも効く(=イージーモード)が、肉体は歳を経るに従い誰でも衰えていく。
そこで、本質的な力(臍力、丹田力)の修得が求められるわけだが、世間で達人と呼ばれる方に熟年者が多いのは、長年の努力の積み重ねの結果というだけでなく、体力・腕力に頼れない(頼らない)という制約による影響も大きいと思われる。
これをゲーム(特にフロムソフトウェア作品)の世界に置き換えると、初期設定HPかつ完全無装備状態でもラスボスクリアできるほどの猛者(変態)といえようか。
相手の攻撃を全て見切り、自身のHPが削られないのだから装備自体の意味なし、というか敢えて装備を捨てることで見切りの瞬発力を極限まで上げるという戦闘美学。
武術でもゲームでも達人の業(スキル)というのは、見るものを魅了してやまない。
話を戻すと、このスキルというものは、何らかの自己制約を掛けないと中々育たないということである。
例えば、実社会における各種試験の場合、スマホと無制限の時間さえあれば、大抵のものは合格点をとれるであろう。
しかし、ほとんどの試験において会場に持ち込めるのは、自身の脳だけであり、解答時間も限られている。
よって、合格に必要なスキルを培うために、
日頃からテキストを見ずに解答する、時間内で解き切るという自己制約をかけた練習(勉強)
をするのである。
ゲームも人生も、そこでやり甲斐や楽しみを得るためには、ある程度の自己制約は必須のものであるといえるだろう。
大富豪の家に生まれ、愛のある家族に囲まながら育ち、健やかな肉体と恵まれた才能を与えられた人生というのも、ある意味ではかなり難易度の高い試練ではあるが…。
とはいえ、人生においてはいずれ放っておいても、老化という肉体的な制約は誰にでも訪れる。
これを、単なる行動範囲の制限と捉えるか、より高いスキルを身につけるためのチャンスと捉えるかは、本人次第である。
生まれながら何らかの制約(障害)を持っている方は、魂レベルでの達人と呼ばれたりするのも、そういう観点ではまさにそうなのであろう。
達人にとっての障害は、先天的なものであろうと、老化によるものであろうと、それは単なる制限ではなく、スキルを磨き、魂を向上させるための「装蓋」であり「招甲斐」なのであろうと、改めて思う今日この頃である。