悪しきに合掌

自分から自分への気づきメモ

制約の意味

ゲームのイージーモード

HPの設定が高めであったり、敵の数が少なめだったりと、ゲームに慣れていない初心者が快適にプレイするためのモードである。

それは、ゲームの世界だけでなく、我々の実社会でも採用されており、民法における未成年者の取消権や労働法、少年法における未成年者保護規定などに表れている(決して適切に制度運用されているわけではないが…)。


しかし、ゲームの世界におけるイージーモードの場合、次第に物足りなくなってくることが多い。なぜなら、やりがいに欠けるからである。
ボタン連打でクリアできるゲームなんてただの作業でしかなく面白いわけがない。


そこでノーマル、ハード、ベリーハードとモードを上げるわけだが、それだけプレイ上の制約は増し、ハードルも高くなるため、プレイヤーは、より高いスキルを求められるようになる。
しかしその分、クリア時の達成感はイージーモードの比ではない。


これも実社会で似たところがあり、より偏差値の高い大学、知名度や給与の高い勤務先、難易度の高い資格などなど、狭き門のクリアを求めて頑張っている人は多い。


ゲームでも実社会でも、共通するのは、


基本能力+任意の(努力+才能)=スキル向上


という等式であり、プレイ制約(自己縛り)が多いほど、スキル向上率は上がる。

 

ゲーム(人生)攻略する上で看過ごせない『運』要素については、ここでは割愛する。


このことは、実社会における武術の世界においても同様で、若い頃は体力・腕力に任せたスキルの誤魔化しも効く(=イージーモード)が、肉体は歳を経るに従い誰でも衰えていく。

そこで、本質的な力(臍力、丹田力)の修得が求められるわけだが、世間で達人と呼ばれる方に熟年者が多いのは、長年の努力の積み重ねの結果というだけでなく、体力・腕力に頼れない(頼らない)という制約による影響も大きいと思われる。


これをゲーム(特にフロムソフトウェア作品)の世界に置き換えると、初期設定HPかつ完全無装備状態でもラスボスクリアできるほどの猛者(変態)といえようか。

相手の攻撃を全て見切り、自身のHPが削られないのだから装備自体の意味なし、というか敢えて装備を捨てることで見切りの瞬発力を極限まで上げるという戦闘美学。


武術でもゲームでも達人の業(スキル)というのは、見るものを魅了してやまない。


話を戻すと、このスキルというものは、何らかの自己制約を掛けないと中々育たないということである。


例えば、実社会における各種試験の場合、スマホと無制限の時間さえあれば、大抵のものは合格点をとれるであろう。
しかし、ほとんどの試験において会場に持ち込めるのは、自身の脳だけであり、解答時間も限られている。
よって、合格に必要なスキルを培うために、
日頃からテキストを見ずに解答する、時間内で解き切るという自己制約をかけた練習(勉強)
をするのである。


ゲームも人生も、そこでやり甲斐や楽しみを得るためには、ある程度の自己制約は必須のものであるといえるだろう。

 

大富豪の家に生まれ、愛のある家族に囲まながら育ち、健やかな肉体と恵まれた才能を与えられた人生というのも、ある意味ではかなり難易度の高い試練ではあるが…。


とはいえ、人生においてはいずれ放っておいても、老化という肉体的な制約は誰にでも訪れる。


これを、単なる行動範囲の制限と捉えるか、より高いスキルを身につけるためのチャンスと捉えるかは、本人次第である。


生まれながら何らかの制約(障害)を持っている方は、魂レベルでの達人と呼ばれたりするのも、そういう観点ではまさにそうなのであろう。

 

達人にとっての障害は、先天的なものであろうと、老化によるものであろうと、それは単なる制限ではなく、スキルを磨き、魂を向上させるための「装蓋」であり「招甲斐」なのであろうと、改めて思う今日この頃である。