恐れの使用目的
この世界の幻想(神からの分離は実在する)を維持するためには、つまり、私たち自身が自らを幻想世界の嘘で騙し続けるには、真実から眼を逸らさねばならない。
真実に近寄らせさせないためには、真実を「恐れるべきもの」と自身に初期設定して、そのこと自体も忘れてしまうこと。
真実を恐る理由は、それが分離(神からの独立=個性)の嘘を暴かれ、自我の消滅に繋がるから。
そして、分離したという嘘を「神に対して犯した罪」として確定させ、神のへの罪に罪悪感を自らに抱かせ、罰(分離の解消)を恐れるという構図をつくり、その罪を他人に投影し合うという特別な関係社会を生み出すことで、世界の幻想性は、不可侵の確実なものとなった。
しかし、世界の幻想と罪悪感(苦しみ)は、表裏一体なので、幻想世界の延長に天国社会がくることは、絶対にありえない、ということに人類は気付いていない。
想念の入れ替え
「人生は変えられる、未来は私たちの手で切り開ける」と思いたいけど、現実は厳しい…と感じている人は多いのではないでしょうか。
しかし、人生の筋書きは、変えることも私たちの手で切り開くこともできません。
例えば、この宇宙を一つの大きな映画館だと考えてみて下さい。そこでは、沢山の作品が同時に上映されていますが、観ることができるのは、その中の一つです。
他の作品を観たければ、別の部屋(スクリーン)に移動しなければなりません。
勿論、どの映画も観客側からその上映内容(シナリオ)を変えるも、切り開くこともできません。
映画を観ながら、その内容を変えるために観客席から祈ってみたり、頑張っている人がいたら、(その世界に没入し過ぎてたまにそういう人もいますが)それは意味のないことだと分かります。
しかし、これが現実生活に置き換えたときどうでしょう。
現実を変えようと頑張ってませんか。
変わらない現実に文句言ってませんか。
もし、今の現実が気に入らないのなら、努力したり文句を言う他にできることがあります。
それは、その上映室から出ることです。
そして最後には、その映画館から出ることです。
立体迷路
この世界は、迷路であることすら隠された立体迷路である。
よって、ほとんどのプレイヤーはこの世界での安住を求め、またこの世界に絶望していれば、来世での安住を求める。
しかし、どんな来世であっても、そこはまた別の立体迷路であることには変わらない。
この世界で活動すればするほど、深みにハマっていく。
もし、迷路であることに気付いて、脱出しようと頑張ることも、また深みにハマる活動となる。
諸活動の根源的な動機は、恐れである。
この恐れはどこからくるかといえば、それは
私が私として独立して存在している、という錯覚である。
そして、この錯覚は揺るぎない信念として、この世の社会に共有されている。
では、この隠された立体迷路迷路から抜け出すには?
○○しなければ…という、湧き立つ想いを脇に置いて、なすべき事を為しながら、心穏やかに日々を暮らすことである。
心穏やかに過ごすには、今まで無自覚であった
「恐れ」と向き合うことである。
恐れをどうにかするのではなく、ただ向き合う。そこにあることを認めてただ受け入れる。
すると次第に、恐れるものなど何もないのに、自分の妄想で勝手に恐れていただけだと気づく。
悟り
時間はない。
時間はこの空間限定で感じる錯覚である。
この世界(空間)はない。
夢の中の世界が実在しないのと同義である。
そしてまた私も、私の器である肉体もまた実在していない。
モニターの映像が、実際には画素の集まりでしかなく、映像として見えるモニター上の肉体が実在していないのと同様に、この世界において素粒子の集まりでしかない肉体も同様に、存在しているようには見えるが、実在してはいない。
実在していない肉体に収まっているはずの私(思考=データに基づく自律的作用)が、肉体という器に依存した存在だと(一般常識的には)思われているが、その器なしのデータ(思考)を宗教的な意味で魂と呼ぶこともある。
しかし、またその魂が存在するために依存していると思われる世界(あの世)の構成粒子が、素粒子よりもさらに精妙な画素的なものであるならば、その世界も実在してはおらず、その空間に依存する魂たちもまた実在していない。
世界はなるようになるべくして、今の姿をしており、全てはしょうがない結果である、という見方がある。
しょうがない結果を未来のために、良くする努力をすることができる。
しょうがないと諦めて何もしないこともできる。
そして私は、今ある世界に対してどう対処するかを私が決めることができる。
…ように見える。
しかし、できるように見えるだけであって、実際は、私の決断も全体(ワンネス)の中で、培われ、私というデータに対し自律的に発動しているだけの作用であり、根本的には私(データ)が決断しているわけではない。
だから、どのような世界の有り様も、その時その時の自律的作用の積み重ねの結果であり、その自律的作用は、本来、私ではどうにもできないことなのであるから、未来に起こることもまた全てしょうがないのである。
もし、いまの腐敗した世界、堕落した自分に対して、社会(私の集まり)や私がどうにかできていたのなら、腐敗した世界や堕落した私にはなっていない。
といっても、ことの有り様に対する見方(価値観)は、相対的なものなのだから、良いも悪いもない。ただ、事実と役割があるだけである。
結局、この世界は、それら全てのしょうがない有り様に対し、私が関わりをもつことで、世界や人生を構築していけると錯覚するためのゲームである。
予め全てのシナリオが決まっていると分かっている映画や小説などのフィクションであっても、それを理解した上で私たちは一作品として楽しめるように、この世界もそうした視点に立つことができれば、先の見えない体感型アトラクションとして楽しむこともできる。
しかも、私たちは、この世界と私が実在していると錯覚しているのであるから、このゲーム体験の没入度は深く、ときに楽しみを超えて深刻にすらなれる。
このしょうがない世界を、楽しむもよし、執着するもよし。
しかし、この世や私に対する執着(=寄生)する我(=エゴ)を捨てれば、私を超えた「わたし」に気づき、世界の本当の姿を発見し、環境に左右されない楽しみ方ができるようになる。
いくら探しても見つからなかった悪夢の出口は、元々この夢の世界の中にはなく、世界と私の真実に気づくことそれ自体が、夢からの脱出方法であり、夢を見ている本体(天国=大安心)として目覚めるための秘訣である。
環境依存によらない悟り方
地球人の幸せのあり方は、その多くが環境に依存している。
そうした生き方に疑問をもった一部の人間は、この世界から解脱することに幸福を見出し、そのための修行に打ち込む。しかし、実際に解脱できるものはごく僅かだ。
人間という生き物は、誰でもが心の底に闇を抱えている。
その闇とは、『足りない恐怖症』である。
そこから、生き残るためには自己を認めて貰わねばと焦る「自己承認欲求」が生まれ、自己を認めさせるために他者との対立が起こり、その他様々紛争へと発展していく。
この心の闇と向き合わない限り、モノとカネで環境を満たしても、厳しい修行に身を呈しても本当の幸福感は味わえない。
本当の幸福感で満たされた人生にするには、
この闇の本質を理解し、頭の隅に置いておくことで、闇に支配された心=自我と一体化せずに物事を見ること(マインドフルネス)に努め、
望ましいモノや環境があってもなくても、振り回されずに、物事を処せる自己を作り上げていくことである。
そこ(底)に幸せを感じられるまでに自己を深められたら、そのとき意図せずともその魂はこの世から解脱しているのである。
心の闇
人は誰でも心に闇を持っている。
その闇を隠すために、自覚せずに済むように、この宇宙という夢世界を作った。
という一つの宇宙観によれば、心に闇を抱えたまま、真の幸福は得られない。
この世界は自分を騙すために作られたものだから。
この世界が夢であるという眠り(自らしかけた忘却)から覚めることの先にしか本当の幸福に気づけない。
それは求めずとも、元からそこにある幸福、永遠に消えず増減のない幸福。
在ることの幸福。
しかし、ほとんどの人間は、心に闇を抱えたまま、忘却のヴェールで隠した夢の中で、仮初の幸福を求めて止まず、転生を繰り返しては知らず知らずと心の闇を深めてゆく。
聖霊のレッスン
所有することは、与えること。
平安を学ぶには、平安を教えること。
学びたいのは、平安であること。
自我のレッスンによれば、与えることは、失うこと。
なぜなら、神(無限)から分離している私は、
有限のものしか所有できないからである。
よって、私の平安を他者に与えるということは、その分私の平安も減るということである。
しかし、聖霊のレッスンによれば、私の本体は平安であり、平安に定量はなく無限であり、この世界において他者に平安を与えても、私の平安が減ることはなく、逆に平安は強化され、より確かなものになる。
蝋燭の灯火は、周りに分け与えることで、元の光は減ることなく、与えた分だけ明るさが増すことと同じ。
与えることができるというのは、与えるものを所有しているからであり、所有していないものは、与えられない。
自我のレッスンは、失くすことができない所有物(平安)を失くしたと信じ込ませるためにある。